文を書くということ



  たくさん書きたいことがあり、発信したいことがありブログを始めたものの、なかなか投稿が増えずにいる。日々感じたこと、旅日記や書評など書くべきことは山のようにあると思っていたものの、始めると難しかった。主に

  • 文を書くことに慣れていないこと。twitterのような短文形式になれていて、段落をつけて文章を構成する力に足りない
  • インプットしていたものはすぐに枯渇する
といった理由が挙げられるのではないかと思う。そこで、今後は、まず文章構造をひねり、下書きを作って僅かな遂行をしていくという試みに当たる。一気呵成に描き上げるのは、熟練していないと難しいようだ。僕個人は、Twitterに慣れているので、とても短い文章を独り言のように呟くことにしか慣れていない。それ以前に2chに書き込んでいたころも同じような投稿の仕方をしていたので、ブログのような原稿と云うべき作品を投稿するのは苦手だった――ここで作品と言ったのは、今の僕にはブログの投稿一つ一つがそれほどの重みに感じられてしまうからで、そう思わなくなるように脱却しないといけないのかもしれない――。
  また、インプットしたものはすぐに枯渇するが、それを補うように膨大な量のインプットをしていく必要もある。大学時代、たくさんの本を読んでいたつもりだが、同時にブログなどの形式で自分からもっと発信していれば、より多くの本をインプットできていたのだろうと、今気づいた。知識はひたすらインプットされていっても、整理され、発信されなければものになっていかない。記憶の奥底で眠り続ける。何かを書く際に、自分が読んだものを再びパラパラと読み返し、引用し、またそれに関する自分の知識を呼び起こし、それについても再び調べ、自分の知識をネットワークのように繋げて整理して、発信できる形にしていく。知識を使えるようにするには、そういった努力がひたすらのインプットにも勝るとも劣らないくらい大事なのだ。また、発信していくことには責任が伴うので、うかつに適当な知識や考えは許されなくなるのもいい点だろう。ジュネットのナラトロジーを読んだところで、実践していかない限り、ただの薀蓄や雑学でしかない――薀蓄や雑学が悪いと言っているのではなく、使えるようにするためには、使うしかない――。これは勉強についても同じである。そのことはまた別の投稿で書こうと思う。
  そのように考えたところで、小説家の偉大さに気づくのだ。言葉を魔法のように使い、独特の空間を創りだす。私小説家ならまだ身近に感じられるかもしれない。

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