ヨーロッパのポッキーMIKADO

MIKADO

今回はポッキーの話だ。ヨーロッパではポッキーがMIKADOという名前で売られている。


ポッキーというのは、みんなご存知、江崎グリコが全国的に販売を展開するお菓子だ。


恐らく、「ポッキー」と言ってもヨーロッパ人は知らないだろう。MIKADOはスーパーマーケットのお菓子売り場で一般的に売られているお菓子だ。

押し付けられる日本文化


パクリ商品ではなく、ちゃんとしたグリコの商品だ。外国に来て思うのは、日本料理や日本の製品に関して、日本文化がとても押し付けがましいのだ。らーめん屋さんでも、日本風の置物が置いてあったり、緑茶にしても日本風のデザインだったりする。ポッキーにしても、流石にそのままの名前じゃ意味不明で、日本のものともわからず、ジャパン・ブランドが発揮できないために、MIKADOという名前で販売されることになったのだと思われる。もちろん、そのように日本文化を押し付けた方が商業的にも成功するのだろう。中途半端に日本っぽいものより、より強く日本を感じさせてくれるものの方が魅力あるだろう。ただ、見ていると、何となく、うるさい。日本文化の押し付けが強くてうるさい。違和感がある。日本文化というものは何か、その本当の姿は何か、そもそも本当の姿というようなものはあるのか。何となく、日本文化が誤解されていくような気がするのだ。

ポッキーの世界展開


上記のようなことを思ったところで、ポッキーについて少し調べてみた。Wikipediaさんによれば、
「ポッキー」の和製欧字綴りである「Pocky」は英語では「痘痕(あばた)のある」を意味する語や男性器隠語同綴異義語の関係になってしまうため、ヨーロッパではこれを避け、「Mikado」という名前での販売となっている。
とのことだった。Pockyという言葉が使えず、やむをえず変えたらしい。
ミカドen)」というヨーロッパのピックアップスティックenゲーム[1](cf. みかど)で使われる竹ひご右の画像を参照)に似ているためにこの名がついた。なお、このゲーム名の「Mikado」は元来、当ゲーム内で最も得点の高い竹ひごの呼称であるが、さらにその語源は天皇の異称である「みかど(御門、。cf. 天皇#中世)」にある。
商品を見たとき、真っ先に「御門、帝」から来ていると誰もが思っただろうが、それはゲームの名前となり、さらにポッキーになるという、ステップを踏まえてのことだった。 さらに読むと、
本商品はまた、マレーシアでは「Rocky」の名で販売されているが、これは「Pocky」が当国の国教であるイスラム教タブーとされる豚肉に関連する英単語「pork(意:豚肉)」や「porky(意:豚の、豚のような)」を連想させるためである。 しかし、世界販売強化による統一的なPR戦略を図るため、2014年春を目処に本家の「Pocky」に改名することを江崎グリコ本社が発表している[2]中国では「ポッキー」を元に漢訳された「百奇拼音:bǎi-qí、ウェード式:pai3-chi1、po2-chi1)」の名で販売されているが、同じ中国語圈に属する台湾では日本と同様「Pocky」の名で販売されている。韓国では2013年6月4日より、江崎グリコと ヘテ製菓食品との合弁会社グリコヘテより、「포키 (po-ki)」の名で販売されている。
各国によって、やむを得ず名前を変えつつも、統一的なPRを世界に向けて行うがために、名前は統一させておきたいらしい。それはそのはずで、ボーダーレス化の進むなか、呼称が違うと、ポッキーについての情報が散逸、分散して、不便なのだ。世界で有名な「ポッキー」という立ち位置を確立できなくなるのだ。もし、吉野家の牛丼がアメリカで例えば「神道ライス」などと呼ばれていたら、吉野家は有名にならなかったかもしれない。ブランドを獲得できなかっただろう。そこでは吉野家ではなく、「神道ライス」のブランドが確立されるのだ。消費者側は、それらが同一だとは気づかない。世界的に展開するためには、同じモノが市場に出回っている方がいいのだ。「グリコのポッキー」というブランドが世界展開するには、名前を変えたくないのだ。

さらに読むと、
タイは気温が高いため、日本より融ける温度が高いチョコレートを使って甘さを抑える、ヨーロッパではカカオ100%のチョコレートにするなど、地域によって製品の内容を変えている。
ただ同じものを売ればいいのではなかった。例えば、アメリカ向けにやたら甘いものを展開するという話はよくあるが、気温の高さという、どうしようもない課題もあるのだ。ちなみに、こちらのページ

欧州版ポッキーは日本とこんなに違う!?

を見ると、「ポッキー」と"MIKADO"の食べ比べをしていた。味は若干違うらしい。外国向けに味を変えるのは、日本文化が受け入れられたように見えながら、実は日本文化とは少しずれた位置に、今までにない別の文化のスペースを作り、それを外国に送り出しただけなのだ。外人が受け入れた日本文化は、日本人が送り出した日本文化は、実は日本文化ではないのだ。そんなことを思うと、そもそも文化とは何なのだろうかと思えてくる。逆に、両者が文化だと思えば、それは日本文化の一部なのかもしれないという見方もできるかもしれない。ただし、この見方は僕には違和感がある。文化というものは、その土地、国民、歴史、教育の中で育まれ、共同体によって共有されるものであると考えるからだ。

日本ブランドの世界展開は素直にできない


ここまで理解して思うことは、日本のものを素直に外国に持って行っても受け入れられないことは、日本文化を受け入れられないことと同じということだ。そのままの味を提示して、そのような味を日本人が嗜むと理解されても、受け入れられてはいないのだ。これは俗に言う異文化理解を難しくする点だし、異文化理解というより異文化受容と言った方が適切だろう。

自国の文化をアレンジして他国へ送ることは、自国の文化が受け入れらないこと、及び、それまで世界にない真新しい文化が文化摩擦の果てに生み出され、需要されたことを意味する。例えば、日本の味ではアメリカでは甘さが足りないから、加糖した緑茶を売り、それが"Green Tea"として受け入れられても、それが意味することは日本文化の需要ではない。日本文化とアメリカ文化の中間のどこかにあるものが生み出され、それがアメリカに受け入れられたことを意味する。日本文化が受けいられたことにはならない。こう書くとき、文化が連続しているように感じられるが、それはまるで、赤い絵の具と黄色の絵の具を混ぜて、橙色の絵の具ができるかのようだ。たしかに連続しているが、それが同じものだと認識されることは通常ない。ある文化圏では明暗の二色しか基本色彩語を表現できないことをバーリンとケイは示したが、今はそのような屁理屈は考えないで日本の色彩言語の感覚で理解する。

味も名前も違うものは、果たして本当に日本文化なのだろうか。この疑問は非常にありふれたもので、例えば、香港に行けば、麻婆豆腐なんかメニューにないこともあり、トリの足をかじっていたり、エビが甲羅つきで揚げられたりと、日本の中華街で味わったことのないゲテモノを目の当たりにするだろう。そのとき、今まで親しんできた中華料理とは何だったのかと思う。本場との違いを実感する。他にも、国連によって食糧難を打破する解決策の一つとして挙げられる昆虫食という文化が受け入れられない人は、異文化を理解していても、受け入れることはできていないのだ。それが悪いと言いたいわけではないし、僕も食文化の受容はできない。三つ子の魂百までと言うのは本当だったと思わされる。

このように考えたとき、文化摩擦が起こるとき、異文化を受けいられれるのは途方もなく難しいことであり、異文化理解が甚だ容易ではないことに気づく。これは、文化レベルでなく、育ち、価値観、作法、階級、貧富などによる些細な部分にまで、延長して考えることができるもので、他人が理解できないとき、許せないときは、このような要素が理解できないこと、受け入れられないことに起因するのだろう。

最後に、以上のように、文明や文化といった曖昧で恣意的に使われる言葉を使うのは、うまく説明できた気になって、よくないのだろう。


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