書評: 人は原子、世界は物理法則で動く 社会物理学で読み解く人間行動 (原題 Mark Buchanan. The Social Atom)

書評: マーク・ブキャナン著, 版元芳久訳(2009)『人は原子、世界は物理法則で動く 社会物理学で読み解く人間行動』, 白楊社




原題を引用すると
Mark Buchanan(2007/5/29). The Social Atom: Why the rich get richer, cheaters get caught and your neighbor usually looks like you. Bloomsbury Pub Plc USA
訳すなら、『社会原子 - なぜ金持ちはより金持ちになるのか、イカサマは捕まり、近所の人間はあなたに似てるのか - 』




書評

非常に面白い本だった。人間という複雑な対象がどうして原子のように扱え、人間世界に物理学者が挑めるのか、読む前には想像もつかなかった。大事なことは、因果関係ではなく、パターンで捉えるということだ。たとえ人間が人それぞれ違っていても、多数集まれば何らかのパターンが自己組織化されることがある。人間よりパターンの方が重要だとする発想を論じる(P.38)。本書では、経済学や社会学の問題点に焦点を当てた後、金融市場、自文化中心主義が解明されていく。そこでの説明には、進化的な適応にも触れて根拠を考えることもあり、興味深い。

合理性仮説とゲーム理論がいかに現実的ではないか

本書は、経済的合理人や、ゲーム理論によって戦略を考える姿勢を糾弾していて、おもしろい。合理的に考えるというのは、経済学では、ゲーム理論を用いてその最適な戦略を考えることを意味することもある。しかし、それによって選ばれる選択は、実際に行われた実験と合わない。人がどういった生き物であるか、どういった選択をする人間がこれまで生き残ってきたのかを考えるにあたって、ゲーム理論は現実の人間の考えを反映していないし、ゲーム理論による選択は、もしかしたら進化的に最適ではないのかもしれない。本書では、経済的合理人仮説やゲーム理論がいかに現実的ではないかを説明し、人間の諸性質を打ち立てて、多くの人間の相互作用から現実を説明する。その姿勢はとてもエキサイティングだ。

利己的な遺伝子と自文化中心主義

私論: 利己的な遺伝子と同性愛についての前置き

最近、同性婚が話題になっていた。しばしば、同性愛については、生物学を勉強していない人から「生物学的におかしい」と声が上がったり、逆に生物学専攻から「ボノボだってレズセックスする。無性生殖と有性生殖を使い分けるものもいる」などと反論が上がる。どちらも納得いかずにいた。最近、生物学専攻の人に質問する機会があったが、納得いく答えはもらえなかった。

僕はこれまで、利己的な遺伝子仮説を信じてきた。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』という本は、衝撃的だった。それは、生物は遺伝子の箱であり、種族ではなく自らの遺伝子を増やすようプログラムされているという内容だ。もはや生きる意味など存在しない。人は遺伝子の乗り物に過ぎない。しかし、それでは、同性愛者を説明できない気がして、解決せず、モヤモヤしていた。たまに、「同性愛は生物学的におかしいと言われると、人格を否定されてる気分です」、「人の多様性を認めるべきです」と言い出す人もいるが、そのような感情論は抜きにして議論したかった。

僕の質問を受けた生物学専攻の人は、「同性愛は存在している。現実を理論に合わせようとしてはいけない。我々だって利己的な行動をとらずに思いつきやおかしな行動をとることがあるではないか。」とまくしたててきた。お互いに認識がずれていた。存在しているからこそ、理論は存在している現実を説明すべきだ。説明できないなら、より包括的な理論に取って代わられるべきだ。私たちの行動が利己的な遺伝子的ではないと言うなら、その点で利己的な遺伝子仮説を自ら放棄していることになる。

どの科学法則にも適用可能な範囲、まるでスコープと呼ぶべきものがある。ニュートン力学は光速に比べて遅いときのみ成り立つ。しかし、ニュートン力学は、より厳密な相対性理論の一次近似だ。物理では、あるときには、ある法則が、別のときには別の法則が働くというのはおかしいと考える。自然は一つなのだ。宇宙も素粒子も、同じ自然にあるものなのだ。物理学者は、より包括的な理論があるはずだと考えて大統一理論を目指している。

利己的な遺伝子という仮説にしても、適用できない範囲は存在する。果たして、利己的な遺伝子の適用範囲はどこまでなのか。ニュートン力学が原子の内部構造で破綻したように、利己的な遺伝子仮説は同性愛を前に破綻しているのか。

利己的遺伝子を考えると、生殖のためのセックスのみ意味があるかの受け取られがちだが、実際はそう単純ではない。そもそも、人間以外の動物は生殖の時間がとても短い。無防備でいながら外敵に襲われたら危険だ。なぜ人の場合は長いのか。避妊具は紀元前3000年前のエジプトにあったとも言われる。社会生物学者のリチャード・ドーキンスは、彼が一般向けに書いた『利己的な遺伝子』の中で、生殖以外のセックス認めないキリスト原理主義者に対して、「動物は産んでも育てることを放置して死なせてもいいが、人間は産みっぱなしで死なせるわけにはいかない。人と動物は違う。だから避妊具は必要だ。」として反論していた。生殖のためのセックスとはいえ、子育てのコストも考えないといけない。せっかく産んでも死んでしまっては遺伝子が後続できない。もし、子育てにコストがかからないなら、大量に産んでおけばよい。逆に、一体あたりの子育てのコストが大きいなら、少数を産んで子育てのリソースを集中させた方がよい。マンボウは一度で二億の子どもを産むが、人はせいぜい1人か2人だ。

同性愛者を説明する一つにハミルトンが発展させた「包括的適応度」によるものがある。自分の子どもは自分の遺伝子を1/2共有している(血縁度)し、自分の兄弟姉妹も1/2だ。自分の子どもが2人いれば、ある遺伝子は期待値1で増殖している。後続される遺伝子を考えるには、血縁関係も含めた遺伝度を包括的に考慮しなければならない。また、遺伝度の他に、寿命や健康状態も考慮するべきだ。なぜなら、自分の子ども2人と、自分の命を比べた場合、一般的には自分の方が子どもよりも先に死んでしまうので、遺伝子を残せる可能性が低い。20世紀前半の生物学者、J・B・S・ホールデンについては次のような逸話もある。
彼は溺れている兄妹のために命を投げ出すか?と問われて次のように語ったと言われる。「2人の兄妹、4人の甥、8人のいとこのためなら喜んで命を差し出すだろう」(Wikipedia)
生殖年齢を終えた女性が閉経した後も長生きするのは、自分が生殖するより、兄弟姉妹や子孫の子育ての世話にまわった方が、より効率的に自分の遺伝子を残せるからだと説明される。「おばあさん仮説」と言われるものだ。しかし、私はこの包括的適応度では同性愛は説明されないと思う。若くて生殖能力あり健康な人間が、なぜ兄弟姉妹や従兄弟の世話にまわるべきなのか、全然説明されない。本人が不妊だったり、産んだ子どもが高確率で夭逝するとわかってるような特殊ケースなら、おばあさん仮説で納得できる。

同性愛者に対してなされる他の説明は、遺伝子のコピーミスというものだ。同性愛が時代や国によらず普遍的に一定に存在してきたのは、遺伝的欠陥ということを意味するのではないか。欠陥というと語弊があるが、遺伝子コピーに問題が通常通りに行われなかったのだろうか。同性愛者も利己的に動くようにプログラムされているが、同性にそれが機能してしまっていて、結果として遺伝子の増殖が達成されなかっただけなのか。これなら、同性愛者は適応できず滅亡したはずだという意見も退けられる。これは、精神障害や知恵遅れが世界に普遍的に存在してきたことの説明でも用いられるし、利己的な遺伝子理論とも共存できる。こういった話をすると、「人権や人間の尊厳を考えろ」、「ひとでなし」、「異性愛者のマジョリティの傲慢さ」などと言う人もいるが、それは筋が違う。この世界に生じる現象を説明するのに、マジョリティも尊厳も関係ない。

若干、利己的遺伝子とは話が逸れるが、そもそも、男性とか女性というのは何なのか。正確な表現は忘れたが、男性性、女性性の連続な座標軸軸があり、人それぞれの脳はその座標軸で尺度を持つ。そして、それはホルモンバランスによって決まるというのを読んだことがある。それに基づけば、同性愛者も理解できるらしい。女性よりの男性や、男性よりの女性の存在を示しているからだ。しかし、ホルモンバランスだけが全てではないらしい。というのも、女性が男性顔を好むか、女性顔を好むか、文化によって違いがある。たとえば、アメリカの女性向け雑誌にはボディビルダーが登場するが、日本の女性向け雑誌にはフェミニンな顔立ちの男性アイドルグループが登場する。アメリカ人と日本人でホルモンバランスが違うのかどうかの研究があったかどうかは失念してしまった。

セックスと愛は別に出発するべきかもしれない。それに、そもそも愛と呼ばれるものは何なのか。同性を愛するのみで、セックスは異性としたい人もいるのだろうか。同性愛者でありながら、それをカミングアウトすることを許されず、異性と結婚して子どもを育む人もいる。それは、同性愛をタブー視していた社会事情によるものだったのか。同性愛が犯罪だった時代に生きたチューリングも同性愛者ながら異性と結婚した。

そもそも、人は利己的に生きてない。命懸けで救命活動をした911の消防士や、宗教的な信仰による自爆テロなど、利己的な遺伝子仮説が破綻するケースは山のようにある。利己的な遺伝子仮説そのものが、間違っているのかもしれない。もっと包括的な理論の登場を待つべきなのかもしれない。

本書で紹介された自文化中心主義のメカニズム

本書では、遺伝子の利己性について、僕が知らない新しい視点を得ることができた。遺伝子が利己的というより、人は所属集団に対して資するように、強調して生きるし、そうしてきた人たちが進化の過程で生き残ってきたというのだ。これは、この後の要旨で説明している。これによって、遺伝子の利己性という呪縛からいくらか解き放たれることができたと思う。また、リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』にも登場した、もはや古典のアクセルロッド『付き合い方の科学』、およびその本に登場する「しっぺ返しの法則」も本書でたびたび登場した。

批判と問題点

1. 批判内容に古いところがある。合理的経済人を本気で信じている経済学者はもう多くない。1979年には、行動経済学において、1979年にはダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーによってプロスペクト理論を提唱し、2002年にカーネマンはノーベル経済学賞を受賞した。しかし、本書では合理的経済人仮説を執拗に批判する。

2. 既存のものの寄せ集めという印象は拭えない。本は多くのものを参照して書かれるにしても、この本の中には筆者自身の最近の独自の研究成果が盛り込まれていない。あくまでも、寄せ集めだ。

3. 物理学以外の分野を軽蔑した雰囲気がある。特に、社会学と経済学には手厳しい。「社会科学はとうとうかなり奇妙なところに行き着いてしまったようだ(P.38)」などと形容している。


要旨

人を原子に見立てる


相互作用が引き起こす現象

。本書冒頭から興味深いシェリングの人種間分離の実験が紹介される。そのように、人を「社会の原子」とみなし、単純な相互作用を仮定すると、人々の性格と関係のない大規模なパターンが出現する。

物理学の多くは、多数の構成要素が相互作用するときにどのようなパターンや組織的構造、形態が現れるかを解明することを目指したものであり、素粒子物理学や宇宙理論の式だけではない。電子のアップスピン、ダウンスピンの二通りの配列の仕方によって磁性は研究される(本書には鉄の磁性しか登場しないが、たしかにスピン配置の仕方によって強磁性体、反強磁性体、更には傾角反強磁性体といった様々な秩序がある。また、複数の惑星間の計算すら、多体問題として扱われ、多くは摂動法によって近似計算される)。

物理学で行っていたことを、人の社会で試すものが社会物理学だ。

自己組織化

自己組織化の性質は、何かの状況Aが別の状況Bをもたらし、更にそれが状況Aを押し進めるフィードバックの連鎖反応が続くことだ。この性質が、ひとりでにパターンを作り出す。人混みで自然と同じ方向の人が列と流れを作る(混みあった駅やテーマパーク)などのもそうだ。

社会学の批判

また、社会学は異なる二つの出来事の相関を調べ、相関があれば一方を他方の原因とするが、人々の行動がどのようにしてそのパターンを生み出したのかは明らかにされない。


人の科学の難しさ


偶然の出来事

偶然の出来事が大きな出来事をもたらす「クレオパトラの鼻問題」(歴史家エドワード・ハレット・カー)は、生物学が遺伝子の突然変異を扱っているので、問題ではないだろう(1920年にはギリシャ国王がサルに噛まれて死んだ後、トルコとの戦争が始まった)。

人間が複雑でよくわからないから

人間は理知的ながら、気まぐれで、馬鹿げたこともする。全て同一の電子と違い、一人ひとり遺伝子も違う。人間の理論が打ち立てられないとするのは、まるで人が自然の外にいる特別な存在だから科学を適用できないというキリスト教的な誤った考えだ。


人の行動原理


人の行動原理は
  1. 人は論理ではなく直感に従う
  2. 人は経験から学習して適応する
  3. 人は周囲を模倣する
  4. 人は自民族に協調する

以下、それぞれについて見ていく。


1. 直感が論理に勝ること

合理的経済人への批判

本書では、経済学の合理的経済人仮説や社会学の従来の取り組み方を批判する。合理的経済人とは、数学的モデルの利便性のために用いられただけだ。

フリードマンは、科学は現実から重要でないものを捨象することで現実を表現するので、合理的経済人は正しいと言う(質点系による惑星間の方程式)が、筆者はそれを認めつつも、100%合理性というものは重要なものでも、正しいものではないと言う。

2つのシステム

ダニエル・カーネマン(2002年ノーベル経済学賞受賞)は本能の上に合理的思考が乗っているとする「二つのシステム」を提唱している。人が完全に合理的というわけではなく、主に本能に支配されて、その上で合理的思考を何とか操っているというのだ(リベットの自由意志実験もそれを支持する)。


2. 適応

アーサーの市場仮説

アーサーは、エル・ファロルという行きつけのバーがすいてる日時を予想した。過去の成績(すいてる日時に行けたか)から次の最適な手段を決める人々を想定してコンピュータシミュレーションにかけた。人が少ないときはパターンに気づいて少数者が行動するが、少数者が増えるにつれ彼らは多数者になってしまった。

エル・ファロルのシミュレーションを市場にも適用した。買いたい人が売りたい人より多いときは株価が上がり、買いたい人が売りたい人より少ないときは株価が下がると仮定した(フィードバック)。すると、株価は上下に揺れ動き、たまに大きく突発的に動いた。しかも、外部の衝撃(油田の発掘や政治情勢)には一切よらず、適応性のあるエージェント間の相互作用という市場内部のダイナミクスで生じた。統計的に解析すると、変数の調整をしなくても、自然に、それまでLTCMも用いるほど主流だった正規分布の特徴ではなく、「広い裾(ファット・テール)」を生じさせていた。それは、マンデルブロが過去の株価データから明らかにした冪分布の特徴であり、長い間メカニズムが説明のつかないものだった。

株価予測

マイノリティ・ゲームでは、人は過去のデータから次を予測して行動を決める。人の戦略を多数用意し、物理シミュレーションにかけると、実際の市場のようなものが得られた。人数が少ないときは、生じるパターンが少なかったが、人数がある数以上になると、市場は相転移し、予想不可能になった。まいのりてぃげ実際の市場でも、予測可能な市場と予測不可能な市場をいったりきたりしているので、「予測可能ポケット」という時点は存在する。予測可能なときは人が集まるが、相転移して予想困難になると、人が去るので生じるパターンが減るからだ。


3. 模倣する

根源的な模倣

アッシュの実験では、一人なら人は容易に正解する問題(二つの線が同じ長さか)でも、周囲の人が誤った答えを言うだけで、自分の答えに自信がなくなり、誤った答えを模倣する。MRIによれば、慎重に考えて別の答えを出したのではなく、物体に対して別の見方を努めていたのだ。きわめて古く無意識的、反射的な「根源的な」模倣と呼ぶべきものがあるのだ。

ペンギン的思考法

情報が少ないときは、周囲の状況や人から判断する。まるで、ペンギンがエサのためにシャチがいるかもしれない海に飛び込むとき、最初に我慢できず飛び込むファーストペンギンを待つかのようだ(他のペンギンを押す意地悪なペンギンすらいる)。海が朱く染まるかどうかで他のペンギンは飛び込むかを考える。

閾値

グラノヴェダーは、周囲の状況次第で人は暴動に加わり、その閾値は人それぞれ異なるとした。まるでスピン相互作用でスピンが配向するかのように(ブショー)。暴動も、携帯電話の普及、出生率の低下やケーララ州の奇跡も、周囲の模倣だ。タイムズ・スクエアの再生はそれに加えて正のフィードバック(経済的潤い)があった。


4. 協調と民族間嫌悪


戦争における膠着状態

戦争では、お互いに臨戦していながら、敵軍に一切の打撃を与えようとしない場面が実際にある。お互いの損失を抑えるために、お互いに闘いの火蓋を切らないようにする戦略をとるのだ。しかし、次に見るように本当の利他主義と言えそうな性質もある。

協調

おそらく、民族間闘争が人間の歴史の中で長かったので、民族に資する人間の遺伝子の方が生存しやすかったのだろう。「最後通牒」ゲームや「独裁者」ゲームでわかるように、公平性を求める。どの文化圏の人間でも、見知らぬ人に富を分け与えようとする普遍性が示された。しかも、互恵性理論に見られる、「次に会ったときの為の借り」という期待が一切不可能な状況でも、「徹底した互恵主義者」になろうとする。

もしかしたら、人間の脳が形成されたのは、最初から快く支出に同意するものには報酬を、ぼまかすモノには罰を与える社会の中だったのかもしれない。この協調志向はが今でも消えずに残っているだけかもしれない。

その場合、徹底した互恵主義は「不適応」だ。相互作用が必ず繰り返し生じると学習してきたので、一回限りしか会わない人とでも別の振る舞い方が簡単ではなくなってしまった。

しかし、祖先は間伐や採集のために遠出することもあり、そのたび頻繁に二度と会わないだろうよそ者と遭遇していた。そんなとき、手を差し伸べている温厚な部族は、とうに根絶されておかしくない。

もう一つの説明は、社会の機能を維持し、「共有地の悲劇」を起こさないためという説明だ。「公共財」ゲームでは、最初は皆協力的だが、途中で裏切り者が現れると、誰も金を出さなくなる。しかし、誰でも対価を払えば罰を与えられるとなれば、みな裏切り者を処罰しようとし、それはごまかしを働くものは消え、実験は安定した。

少数の集団を維持するには協調関係が発生するが、数十人の集団では徹底した互恵関係が必要だ。個々の人には不利に働いても、集団には不利に働かない利他主義があるのだ。これは集団間の競争が顕著であれば、自然に現れるはずだ。

祖先は、真の利他主義によって、力強く柔軟な集団を形成し、集団間の淘汰に勝ってきたのだろう。

自民族中心主義

人は自民族と協調する。崇高な思いやりがもたらす副作用は民族間闘争となって現れる。アクセルロッドとハマンドは、人々の関わりあいが完全にランダムであり、無秩序に相互作用が起きていても、人々に「色」ついていれば、同じ色の人と協調する人々常に広がっていくことを示した。偏見にもとづく戦略の成功が分離を進めるのだ。色の異なる人々は隣にいてもうまく協調できず虚しい努力をするが、たまたま偏見を抱いている人同士が近づくとお互いに協調できる。学習して、より多くの人々が偏見を持ち、同じ偏見を抱く人たちは集まる。この場合の色は、肌の色でも、服飾でも、社会規範でもよい。

自民族中心主義は、個々人のレベルでは役に立つものなのだ。もちろん、現実の世界では絆と理解によってレッテルによる色分けの潜在的な力を防いでいる。

社会の正常なメカニズムが機能しなくなると、仕事や共同体間の商取引で築き上げた社会的絆や信頼は消え、原始的な手法を利用して信用できる相手を探す。外人やよそ者が突然危険に見えるのだ。


金持ちがさらに豊かになる理由

パレート最適

パレートが発見したことは、W以上の富を所有する総人数はつねにWのα~2.5乗に逆比例している。これは、数字は違えど、よく人口の20%が富の85%を占めているなどと言われるパレート最適のことだ。この普遍的人間性は何から生じているか。

富は偶然に増える

資産変化の仕方は、
  • 移転: 富はある人からある人に流れる。富の総額は不変。
  • 投資: 偶然に支配される。富の総額は一定に保たれない。

ブショーとメザールはコンピュータシミュレーションを上記に次の仮説を一つ加えた人口世界で模擬的にコンピュータ・シミュレーションした。
  • 仮説: 富の価値は相対的である
変動する資産の重要性はその人の所有する資産に左右されるということ。つまり、貧乏人が100ドル失うと破滅的だが、大金持ちは数千ドル失っても動じないということだ。

富の移転は、資産を格差なく満遍なく行き渡らせ格差を平準化する作用がある。お金持ちはより多く買い、富は他の人々に流れる。貧乏人は買うものがないので、手許から富が流れていかない。しかし、それでも、逆方向に働く作用には太刀打ちできない。

人々に投資の才能が平等に与えられてると仮定しても、単に運が良かっただけで資産を増やす人がいる。この人たちは、次の投資にまわせる資産が多くなり、さらに運がよければ、より多くの資産を獲得する。指数関数的に資産が増えることで富の格差を生むのだ。これは実世界の富と同じ冪分布を示した。




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