書評: ウィトゲンシュタイン『青色本』

書評: ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1958)『青色本』(大森荘蔵訳), 筑摩書房



ウィトゲンシュタインについて


ウィトゲンシュタインは1900年代前半を生き、オーストリア・ウィーンの出身でケンブリッジ大学で主に活躍した哲学者だ。ケンブリッジ大学の一室では、毎週のようにウィトゲンシュタイン、ムーア、ラッセルなどが学生と一同に哲学的議論をしていた。尤も、ラッセルとは最初は懇意だったが、後年にはラッセルは軽薄短小な本しか出さないと蔑んでいた。
モーリッツ・シュリックを中心とし、論理実証主義を標榜とするウィーン学団では、ウィトゲンシュタインが前期作品『論理哲学論考』はバイブルのような存在であった。ウィトゲンシュタインはウィーン学団の一員として熱烈な歓迎を受けたものの、ウィーン学団の集まりに参加することはなく、むしろ、とっくに論理哲学論考での失敗を反省し、日常言語を論理学的立場から考察することをやめていた。
他にも、ケンブリッジでの授業に参加していた計算科学者アラン・チューリングと数学基礎論で議論することや、ケンブリッジの一室に来ていた反証主義で有名なポパーと火掻き棒をめぐる事件を起こした逸話などある。

ここまでの話は、参考文献に詳しく書いてある。私も今再び紐解いているわけではないので、いささか記述に正確さが欠けているかもしれない。


青色本について

ウィトゲンシュタインが生涯に完成させたものは少ない。というより、『論理哲学論考』のただ一冊だ。この『青色本』も、ウィトゲンシュタインが講義の学生に家でも反芻できるよう書き取らせたものだ。それゆえ、論点のヒントしかのっておらず、理解するのは容易ではない。ウィトゲンシュタインの思想は前期と後期で別れる。人によっては中期も入れる。『青色本』は後期、中期を入れるなら中期にあたる。後期では『哲学探求』が代表的だ。『論理哲学論考』で哲学を完成させたと思ったウィトゲンシュタインは哲学から一時期離れるが、再び戻ってくることになる。そこで前期と後期に主に区別されており、思想は断続的だ。前期では、数理論理学の祖であるフレーゲのもとで学び、数理論理学と日常言語、思考についての考察をしていた。後期では、「言語ゲーム」、「家族的類似性」の観点から言語や語の意味を捉えるようになる。青色本でも日常的言語学派の立場をとるようになったウィトゲンシュタインが言語ゲームや家族的類似性という概念を用いて治療哲学を進めている。ウィトゲンシュタインにとって、哲学とは日常的な言語活動から離れてしまったがために、我々の言語使用から逸脱した使い方で言語を用いるために、混乱してしまったものなのだ。ウィトゲンシュタインは、そんな哲学的な病を治療しようとしている。また、『青色本』中でウィトゲンシュタインはまだ哲学との格闘のまっただ中にいるのが感じられる。思索の途上なのだ。

本書は、ちくま学芸文庫から出ており、本文にして200ページもないのだが、読み終わるのに時間がかかった。展開が非常に追いづらいところが多々ある。およそ半分も理解できなかった。下記の写真にある訳者傍註の「*なぜならないのか、私にはわからない。〔訳者〕」と同じに気持ちになることがとても多かった。ただし、講義録というだけあり、公式集のような『論理哲学論考』よりは読める。





言語ゲームと家族的類似性

語に定義はない

「語の意味とは何か」で本書は始まる。「青とは何か」、「りんごとは何か」などと説明して定義を与えようとすると、別の語を用いて説明しなければならないという無限サイクルの罠に容易に嵌る。この問題については、『論理哲学論考』でも、その言語の世界にダイブしなければならないなどと最初のところに書いてあったとうな気がする。ウィトゲンシュタインは本書では次のように言う。語はどのように用いられているのか。言語には明確な規則などない。

我々は自分が使っている概念を明確に定義することができない。本当の定義を知らないからではなく、それらの概念には本当の「定義」がないからである。(P.61)

言語ゲーム 

ウィトゲンシュタインは言語はゲームのようなものだと言う。チェス盤を目にしたとき、その一つ一つの駒には動ける範囲が決まっていて、そのルールに従って駒を動かすように、我々は言語ゲームの中で、一つ一つの語のルールにのっとって語を使っているというのだ。「リンゴ六つ」という紙切れを人に渡して、その人が八百屋に行って紙切れを見せる。八百屋はリンゴという文字を貼札それぞれと見比べ、リンゴを袋に入れるたびに一ずつカウントする。この描写について、言語ゲームが初めて登場する。

――これは言葉が使われる一つの仕方である。 以後たびたび私が言語ゲーム (language game) と呼ぶものに君の注意をひくことになろう。それらは、今度に複雑化した日常言語の記号を使う仕方よりも単純な、記号を使う仕方である。言語ゲームは、子供が言葉を使いはじめるときの言語の形態である。言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態すなわち原初的言語の研究である。我々が真偽の問題、[すなわち]命題と事実との一致不一致の問題、肯定、仮定、問の本性の問題、を研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。これらの[問題での]思考の初携帯がそこでは、高度に複雑な思考過程の背景に混乱させられることなく現れるからである。言語の蚊のような単純な形態を観察するときには、通常の言語仕様を蔽っているかのようにみえるあの心的な[ものの]霧は消失する。

我々が陥りがちな一般的なものへの渇望

ウィトゲンシュタインは続いて、原初的言語から漸次新しい形態を付け加えることで複雑な形態を作れると言う。しかし、それは我々が一般的なものを渇望してしまうことによって妨げられる。

a) 一般名詞に共通要素を探す傾向
――例えば、すべてのゲームに共通なものがなければならない、この共通な性質こそ一般名詞「ゲーム」をさまざまなゲームに適用する根拠である、と我々は考えやすい。しかしそうではなく、さまざまなゲームは一つの家族を形成しているのであり、その家族のメンバーたちに家族的類似性 (family likeness) があるのである。家族の何人かは同じ鼻を、他の何人かは同じ眉を、また他の何人かは同じ歩き方をしている。そしてこれらの類似性はダブッている。(P.43)

b) 語を知ると、その語の像を獲得していると考える傾向
語の意味とはイメージあるいは語に対応する事物であり、その何か視覚的イメージのようなものが、その語に共通して含まれていると考えがちだ

c) 一般観念を把握する際の、生理学的心的機構の状態の意味での心的状態と意識の状態
(歯痛など)の意味での心的状態の混同

d) 我々が科学の方法に呪縛されていること。
自然現象の説明を、出来る限り少数の基礎的自然法則に帰着させるという方法、また数学での、異なる主題群を一つの一般化で統一する方法のことである。(P.45)
「一般的なるものの渇望」と言う代りに、私は「個別的ケースへの軽蔑的態度」と言うこともできた。(P.46) 
それ (栽培されたりんごの完成度、渡邊注) と違う場合として 、チェスト他の点では同じだがただ歩を使わない点でそれよりも簡単なゲームがあるとする。このとき、このゲームは不完全だと言えるだろうか。また、或る仕方でチェスを含んだ上更に新しい駒を加えたゲームがあれば、それをチェスよりも完全だと言うべきだろうか。論理においてより一般生が乏しいと思われるケースに対する軽蔑も、それが不完全だという考えから出てくるのである。(P.47)
一般名辞の意味を明確にするためにはそのすべての適用を通じて共通する要素を見つけねばならぬという考えが哲学にかせをはめてきたのである。(P.48)

本書は、この後、語は実際にどのように用いられているかを見ることによってのみ、その語が明らかになると続く。次のわかりやすい引用はウィトゲンシュタインの哲学を知る一助になる。参考文献の「青色本」中から抜き出したので、書籍中の該当するページ番号はわからないが、全く同じ記述は大森荘蔵訳にもあったので、がんばって探せば書籍中にも同じ叙述が見つかる。

「私は、語がある文脈において何を意味するかは理解している。だから、『3フィート地下』という句を、たとえば、『測量によって水が3フィート下を流れていることが示された』とか『3フィート地面を掘り進めば水に突き当たるだろう』とか『見たところ、水の深さは3フィートだ』などの文との関係のなかで理解している。しかし、『私の手に、3フィート地下に水を感じる』という表現の使用は、まだ未知のものだから私に説明してもらわないといけない」と。
――私たちは、「視界を鼻柱の2インチ奥に感じる」と言う人間を嘘つきだとか、そいつの言っていることは無意味だと言おうとしているのではない。そうではなく、私たちはそのような句の意味を理解していないと言いたいのだ。そうした句は、確かに、馴染み深い単語を組み合わせて作られている。だがその組み合わせ方を、私たちはまだ理解していない。だから、この句の文法を説明してもらわないと、私たちは句の意味を理解できないのだ。
この場合もまた、語が意味を持つのはその特定の使用によってであるということを学ぶことができる重要な事例である。私たちはさしずめ、チェスやチェッカーの駒に似た形をした木片がチェス盤の上にあったら、どのように使うかについては何も言われていないのに、ゲームがやれると考える人に似ている。 [同様に、語が与えられただけで、その用法が与えられていなければ、言語ゲームはやれないのだ。]

まだ追えていない他の議論の展開もあるが、青色本での活動が何となくわかったところで、擱筆しておく。他の人も『青色本』を研究したページを作っているので、参考にされたい。また、永井均『ウィトゲンシュタインの誤診 -『青色本』を掘り崩す』, ナカニシヤ出版も、いったん頭を哲学から休ませた後、紐解きたい。

参考文献



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