内省の書き出し

この記事は、いわゆる自己分析のようなもの。就活で自分のことを話す必要があったので、よく内省していた。構成がきれいにまとまっているわけではないが、ここにまとめてみた。



  • 後悔しないように生きてきた
  • 変化続けようとがんばってきた。

後悔しないようにしたことについて
先に起こる後悔は前もって防ごうとがんばってきた。
自分が大学を出るときに、起こりうる後悔を予想した。
学がないこと、友人が少ないこと、周囲の学生とたいして変わらないこと。それらは避けることにした。自分の憧れる理想の像(イメージ)に近づくためだった。なぜ理想像がそのようなものになったのかまでは、ここには書かない。

学については。二つある。一つは、後悔しないための学だった。後悔というのは、後で新情報や知識をつけたことで、よりよい選択肢を知って、後悔するものもある。僕は、知識が多ければ多いほどよい決断ができると信じた。人はその場その時に最適な選択をするしかない。そのときの選択をよりよいものにするため、より多く学ぶべきなのだ。

2つ目、広いテーマについて、それぞれの専門分野の人とも会話ぐらいはできるようになろうと思った。専門性を決めるまでに、薄く広く物事を知る必要がある。少しでも知っていると、その後の勉強もしやすい。そこで、多方面の人々と関わり、広く書物を読むようにした。専門性を決めてからは、その専門を軸にして広げていくようにした。そうすることで、ただ浅く広い安易なジェネラリストになるのを避けたつもりだった。専門分野の蛙になるのは、自分には退屈だった。

友人について、人に慣れ、学内か学外か問わず様々な友達をつくろうとした。芸術家、遊び人、起業家、優等生、夜の世界など。自分にとって怖いところ、理解できないところに積極的に飛び込んでいった。大学入学当時、驚くべきほどコミュニケーション能力が低かったので、その治療が必要だった。驚くほど饒舌でイケてる友人ができ、行動を共にするにつれて、改善されたことで、次の教訓を学んだ。言動の理解が超えた相手は自分を変える。

また、友人の数を増やそうと思った。見栄だったかもしれない。友人が多い人の方が、人気者で、世間をより知っており、大事なことをしているように見えた。始めたばかりのfacebookの友人1000人にするという目標をとりあえず立てた。薄っぺらい友人関係ばかりできたらどうしようという危惧もあったが、人数に目が眩んだので人数を優先することにした。卒業までには友人1000人を超えた。結果、友人は数ではないとわかった。それは友人の数が多くなるにつれて、薄々感じていったことだった。今の友達リストには、どこで会ったかもわからず、名前も聞いたことのない友人がたくさん増えた。自分を含む全ての人間には平等に一日24時間、年間365日しか時間がない。体力も無限にあるわけでもない。その限られた時間と労力をどのように分配するべきなのか。多くの人間との人間関係のメンテナンスのために少しずつ分配するのはいい考えではない。その人たちにも、僕以外にもっと関わるべき相手がいる。そもそも、自分が関わるべき相手というのは、選ぶべきなのだ。人間は周囲の人間に影響を受けて生きている。影響を受けたいと思う相手と仲良くしていくべきだ。

卒後、学内の友人が少ないかと思って増やそうとした。それで気の合わない人と無理して仲良くなっても仕方がない。そこまでして仲良くなる価値のある他人はそんなにいない。

大学に入ってから、学生が同質に見えた。専攻に入ると、それは際立った。周囲と同じことをしているのは嫌だった。平凡で均質で没個性な人間でいるのは、耐え難かった。自分は組織に入るなら、インサイダーとアウトサイダーの間にいるのがちょうどよいぐらいだった。もしくは、自分で組織を作ってしまう方がよかった。


できる範囲から人の役に立とうとした。
twitterのオフ会をしばしば催した。皆にも自分と同じ経験をしてほしいと思った。人は、理解できない人を理解できるようになるときに自己の成長を感じる。自分の視野が広がり、新たな価値観を手に入れられ、この世から恐怖が一つ減る。そこで、自分がせっかく様々な友人がいたので、彼らを会わせてみようと思った。世間や見聞や価値観が拡がることだろう。これは定量的な目標はなく、新しい人も呼びつつ継続することを大事にしていた。


チーズフォンデュ会。大学院に入ると、様々な分野の友人を持ち、出張の多い自分にしかできないことだと思った。それが、自分がやっていて楽しく、身近な範囲で役に立てることだった。様々な分野の友人がいると自分で言うのも気恥ずかしいものだが、他の人より友人関係を広く大事にしてきたという自負はあり、他の人にも言われる。尤も、お土産を買ってきて欲しいと多くの人に言われて、個別に渡すのが面倒になり、スイス料理の一つであるチーズフォンデュのパーティを開くことにした。既に四回ひらいた。そこで学んだことも多い。

憤りを感じたとき、どうしたらいいのか。理解できない怖い相手に会うとき、どうしたらいいか。
人が皆自分と同じ価値観で生きてると誤解する罠にハマってしまうから人が許せない。人の明らかな言動に見えない部分を理解しないといけない。そのためには、人の家庭環境や、育ち、親戚関係、親子関係、コンプレックス、本人の気がついていない部分まで洞察する必要もある。そこまで知った上で、相手の立場になれば、怒ることはなく、互いの最適解を探索できる。そして、完璧な人間なんてこの世にいないのだと改めて思い知るとき、圧倒的な相手に感じていた怖さは汐のように引いていくことがある。

多くの場合、こういった相手の価値観の受容がとても大事だ。多くの人間に欠けているものかもしれない。ただし、どんな価値観でも受容していこうとすると、今度は自分が平均的で透明な人間になってしまう虞がある。それでいいなら構わないが、自分を持ちたいのであれば、自分の価値観をハッキリさせておくべきだ。それは必ずしも明文化できるものではないが、それに反する人間に出会ったときに、反論するための公理のようなものだ。なぜそれを大事にするのかと聞かれても、簡単に答えられるものではない。例えば、「勉強なんて役に立たない」と言う人間に対して、「役に立たない勉強なんて存在しない。」と言えること。「嫌な人間をブロックすることの何が悪いのか」と言う人に対して、「理解できない相手を理解することが大事だ」と言えること。「あれは親のせい、先生のせい」と言う人間に対して、「どんな環境でも責任転嫁ばかりせず自分で自分をよくしていく努力は怠ってはならない」と言えること。そういった自己の守るべき基本的な価値観はある。必要に応じて相手と論争もするし袂を分かつこともある。人間は一緒にいる人間に影響を受けるので、誰とでも仲良くしていればいいというものではないのだ。


なぜ研究をやめて働くか

  • 経済的に自立したいから。奨学金には落ちた。いずれにしても、助成金に頼らず、自分で稼いでいきたい。奨学金と給与は違う。
  • D5やD6になっても博士論文が書けず、50になっても若いと言われて教授になれない。授業料も払いつつ、奨学金も切れて、職歴もなく専門性ばかり高まるその姿を見て、違和感を感じた。自分がなりたいものと違った。
  • 自分が研究に向いてない。研究しかすることのない人は本当にいる。いつ研究室に行っても既にいて、ご飯に行っても研究の話しかしない人がいる。

主にこの三点だ。物理の話はおもしろいし、研究報告を知るのも好きだが、自分が研究したいとは思わないタイプなのかもしれないと気付き始めた。Newtonを読んで科学に憧れるのと、実際に研究機関に入って生きるのはあまりにも違うことだ。

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