Henri Bergson(1889)『時間と自由』(中村文郎訳), 岩波文庫

 とても理解ができなかった、易しいプラトンよりはもちろん、明瞭さのないウィトゲンシュタインの青本よりもわかりにくかった。そのわかりづらさは、ハイデガーの『存在と時間』を読んで挫折したことを思い出した。


 原題は 《Essai sur les données immédiates de la conscience》、訳すと『意識に直接与えられたものについての論文』となる。中身は以下の通り。後ほど、順にコメントを記した。
  • I   - De l'intensité des états psychologiques
  • II  - De la multiplicité des états de conscience, l'idée de durée
  • III - De l'organisation des états de conscience, la liberté

 本書は、いかに余暇の自由な時間を作り出すかについての実用論が書いてあるわけではない。いかに人間の意識が過去や未来へ続く中途での連続を意識し、自由意志が存在するかについて書いてある。どうがんばっても夏休みは増えない。

 読んでいてわかりにくいことに、展開が主に著者の直感によっておもにすすめられる。しかし、実際のところ、今言った「直感」という言葉も正しくないらしい。しかし、いかなる言葉によっても表現できないものを筆者は抱えているらしい。そのようなことを言われても、こちらもわかったようなわからないような気すらしないが、そのような「直感」に従って本書はすすむ。特に、科学をやる人には、とても意味がわからないだろう。筆者の主観や勝手な考えがどんどんと進んでいき、読みながら疑問が絶えない。

 また、著者の語句か、訳語の問題か、言葉がわかりづらい。「数」が「日常の日々のその一瞬ごとの瞬間」などの意味で使われることがある。そのたび、可算濃度のことか、不可算濃度のことかなどと考えたが、そのような概念は本書にはない。集合論や対角線論法で著名なカントールの方が若干あとの時代を生きていることからも、わかることだろう。もっとそぼくに、日々の営みの、その瞬間の数なのだ。

 さらに、訳文がとてもわかりにくい。哲学書によくある、これは私の知っている日本語ではない、と言いたい気分になる。

 とにかく、わからない箇所だらけで、本書に時間をかけて読むのもバカらしくなるも、かといってわけがわからないまま読み進めても、ひたすらわからないので、それこそ意味なく感じてしまい、困った本だった。

 第一章『心理的諸状態の強さについて』は、質と量について。感覚、音、光量、熱、重さなどについて、その一元的な尺度についての小論文。どれもよく意味がわからない。ただ、美術については、自分が常日頃から考えていたことが書いてあって、同意した。美や音楽、ダンスは、テンポに従うことで、予想しやすいことが大事だということ。フェヒナーの精神物理学についての言及もあるが、結局よくわからなかった。感覚の最小の単位を用いて測定するのがよくないと言っているが、そんな単位はあっただろうか。

 第二章『意識の諸状態の多様性について』は、空間と持続についての小論文。若干私の憶測が混ざるが、以下のようなことが書いてあるのだろう。人間が経験する瞬間は、常にこの「今」しかないのに、どうして過去や未来を考えることができるのか。「今」この瞬間、既に過去は存在していない。では、どうして過去や未来への延長を感じられるのか。それは、自分の中に時間の「継起」を持っているからだ。自分の外側の世界には、常に瞬間しかない。連続した継起の世界は、自分の中にしかない。

 では、人間はいかにして連続した意識を生み出しているのか (連続、意識などという語彙は適切ではないかもしれないが)。人は、個々の瞬間の全体をつなぎあわせているのだ。振り子時計の最初の一個、二個の音を聞いただけでは、それが連続して続くとは思えない。また、個々の瞬間などというと、それが加算無限なのか、不可算無限の濃度なのかよくわからないが、ベルグソンはそんなこと考えていない。当然のように、連続して経過するこの時間が個々の瞬間にわけられると思っているらしい。本書中では言うまでもないことなので読者はついていけなくなるポイントの一つだ。

 第三章『意識の諸状態の有機的一体化について』は、自由について。この自由は、自由意志のことだ。ここは理系、科学哲学家にも興味深いのではないぁ。ベルグソンのいた19世紀末は、物理学のおもな問題がニュートン力学によって解決し、物理は完成し、物理の仕事は個々の問題を解いていくにすぎないと思われていたころだった気がする (不確かなので、気になった読者は文献を探すように)。同時に、そのころは原子物理学ではニュートン力学が通用しないので、物理学者はこれからどうしようなどという雰囲気も高まりつつあった。つまり、パラダイムシフトの時期だったのだ。なんていったって、本書が書かれたのが1889年。黒体輻射に関するプランクの法則が1900年、アインシュタインがノーベル賞のきっかけとなる光量子仮説を導入したのが1905年、ラザフォードが金箔にα線をぶつけたのが1911年、ボーアの原子模型の論文は1913年だ。

 それでも、本書中では量子力学の萌芽に関する記述はない。ニュートン力学を念頭におきながら読み進めたらいい。主題は簡単だ。自由意志擁護者 vs. 決定論者。物理の基礎方程式に変数を代入すれば、その後のことは全て予想できる。例えば、人工衛星の打ち上げも、天気予報も物理の方程式に基づいている。では、人間の意思も予想できてしまうのか。人間の脳の構造も物理方程式で計算できるのか、脳のある状態と意識が一対一に対応するのか。そのような問を抱えながら本章は進む。

 筆者の意見では、自由意志はある。
このような条件のなかで、時間の作用に従いつつ持続を蓄えながら、まさにそのことによってエネルギー保存の法則を免れるような或る意識的力ないし自由意志というものがあるのではないか。(P.185)
なぜなら、人間の体験する時間と、方程式の時間は異なるからだ。
したがって、未来の行動は予見されうるかと問うているとき、ひとは無意識のうちに、精密科学で問題にされ、数へと還元されるような時間を、その量と見えるものが本当は質であるような真の持続と同一視しているのである。(P.236)
方程式で扱う時間は、間隔のない時間だ。一瞬で100万年先までわかってしまう。しかし、人間の体験する時間は継起、持続している。100万年先のことであっても、実際に体験できる全ての感覚を方程式に詰め込むことはできない。方程式には諸条件を入れるが、その 諸条件がどのようであるか、実際にその人になりきって体験してみなくてはわからない。もし、それが未来の事なら、その条件は未来を待つほかない。
化学は予見と測定を主要な目的としている。ところが、物理現象が予見されるのは、それが私たちのようには持続しないと仮定する条件においてのみであり、測定がなされるのは、空間についてだけである。したがって、ここでは、質と量のあいだで、真の持続と純粋な拡がりとのあいだで、おのずと切断がおこなわれているのである。(P.275) 
ここでは、思うに、物理の再現性の根本的な問題に触れているのだと思う。物理では、条件が揃えば同じ結果が再現できる。むしろ、その法則を追求している。物体の地球表面での重力加速度は 9.8m/s^2だし、エネルギーは常に保存する。しかし、ベルグソンは、同じ条件でも、常に時間が違うという。たしかに、昨日と同じ条件で実験を再現しても、時刻まで同一にすることはできない。無論、私もそのことについては考えたことがあるし、物理は時間によらずに再現できるからこそ強力なのだろう。しかし、そんな物理でも考慮できないものがあるのだ。それは、持続と運動だ。
私たちが証明を試みたように、数学的認識は時間のうち同時性しか、運動そのもののうち不動性しか保持しないのだから、持続たるかぎりでの持続、運動たるかぎりでの運動は、そうした認識から逃れるのである。これこそ、カント派の人たちや、また彼らの反対者さえも、気づかなかった点だと思われる。科学によってつくられた、このいわゆる現象界では、同時生のうちに、つまり空間のうちに翻訳されえないすべての関係は、科学的には認識不可能なのである。(P.279)
このようにして、筆者は次の二元論的な対比にもとづいて進んでいる: 継起と同時性、持続と拡がり、質と量。 このような説明では、全然わからないと思うが、自分も実際よくわかっていないので許してほしい。私は今でも疑問が尽きない。ベルグソンは、究極的にはクオリアに関することを言っているのだろうか。そもそも意識と呼ばれるものは何なのか。脳科学によって人間の行動予想ができたら、それでも自由意志もって行動していると言うのか。読者は、もし本書を読んでわかったら、教えてほしい。


 ちなみに、とてもどうでもいい話だが、本書を手に取るきっかけになったのは、東北大学の科学哲学のレポートの締め切りに関する教授と学生の問答のうちの次だ。


              告
                           6/22
                   理学部物理学教室 浅川

時間の連続性についての疑義は受けつけません。どうやらベルグソン
の時間論を曲解している者がいるようですが、主観的時間がどうあれ、
7/1 の後に 6/30 が来ることはありません。


どうやら、「嘘共演」と呼ばれるサイトへの投稿であり、実際に大学で起こったことではないらしい。そして、本書を読んでも時刻が前後する主観時間はよくわからなかった――本書では外部には空間があり、自身の内部にのみ継起が存在することが述べられる――。



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