バートランド・ラッセル(1912)『哲学入門』(高村夏輝訳, 2005), 筑摩書房

高名なラッセルによって書かれた認識論の一般向けな入門書である。
Bertrand Russelの"The Problems of Philosophy"。1912年にfirst published,  1998年にsecond editionが出た。


対象

哲学や古典に触れてみたい一般人向け。岩波文庫や一般の哲学書に比べて、潔く平易に書かれている。古い本はたいていわかりにくいものだが、本書は100年ほど前の本だというのに、わかりやすくて驚く。

よい点: とても平易でわかりやすい

平易な問題、「我々が見ているものは本当にあるのか」といった問題から始まり、認識論、大陸合理論、イギリス経験論、アプリオリなどに進んでいく。それらの概念の基本を身につけるのに本書はとても向く。デカルト、バークリー、ラプニッツなども易しく解説され、ラッセルによる批判が行われる。教育的な本だ。哲学についてのファンタジー小説、ベストセラーとなったヨースタン・ゴルデル『ソフィーの世界』とあわせて読むと、初心者はよさそう。

悪い点: 読んでいて疑問点が尽きない

哲学書によくあることだが、「明らかだろう」とされても、納得できない点が絶えない。

たとえば、ラッセルは加算1+1=2は紛れも無く、人間の経験より以前の、世界の原理だと言う。本当にそうだろうか。たとえば、ウィトゲンシュタインの数学基礎論だと、2+3=8になってもいいなどと書いてあった(記憶が不確かなので、数字の違いはあるかもしれないが)。このように、ラッセルは押し付けがましい。

また、知識の整理についても疑問があった。「面識」という、平たく言えば自分で見聞きした経験と、「記述による知識」は異なると言う。本当にそうだろうか。「体験する」と「読む」ことは、果たして違うのか、違うならどの程度違うのだろうか。どちらも人間の脳が電気信号を受け取っているだけに過ぎない。さらに、現代風の疑問を呈すれば、VRは面識に入るのだろうか。知識の分類や整理となると、恣意的な印象を受けた。

他には、「演繹法は分析的には何も新しい情報をもたらさないと言われていたが、そうではない。」、「論理学は新しい情報をもたらす」などと言っているが、大いに反論したくなった。論理学も数学も、いくつかの基本原理の組み合わせによるトートロジーにすぎないではないか。演繹法も、全称から個別にうつるときを考えれば、同様だ。

また、哲学の果たす意義や役割についての章は、偉そうでしゃくにさわる。「哲学は日常的な言葉の本来的な意味や使われ方を忘れてしまうから生じる問題だ」とし、哲学という袋小路にはまってしまった人を助ける治療哲学をしていたウィトゲンシュタインが生理的に毛嫌いしたのもわかる。

感想

自分は常日頃、何が真実で、何が確かなのかを考えることが多かった。本書によれば、それは決定的な判断をくだせないらしい。やはりか、と思った。そして、ラッセルはもしかしたら間違っているかもしれないと言いつつ、物自体や、センスデータと人の関係についての議論をすすめていく。それを読みつつも、僕は観念論的な考え――世界の実体はなく、世界は人の知覚によってのみ作られる、いわば世界は脳内にある――という考えは捨てることはなかった。

ラッセルは、こんな例を持ちだして、真実とは何かを問いかける。現代風に言えば、「コンビニの前に仔猫がいたので、遠くから声をかけてみた。返事がないので近づくと、ゴミ袋だった。」このとき、もし近づかなければ、ずっとコンビニの前に猫がいたと信じてしまう。人の感覚は簡単に騙される。そして、自分の感覚が決定的に正しいかを判断する方法はない。

僕は、これに対して、世界は知覚によって作られていると思う。真実の世界がある、ないといった議論は意味をなさない。人の世界では、たとえ猫だと思ったものが実はゴミ袋だとしても、そこに猫がいると信じる限りは、そこに猫がいることになるのだ。もし太陽が爆発したと思いこめば、太陽が爆発したことになるのだ。もし、自分が存在しなくなったと思いこめば、自分は存在しなくなったのだ。

世界は単一ではないのだ。自分が月を見ていないときに、月が消えてるかもしれないという古典的なテーマは、バークリーやスピノザをはじめとして、様々な人が考えてきた。これに対しては、知り得ないし、世界を構築できないと思う。もし月がなくなったことを間接的に知覚するなら、人は月がなくなったと思うだろう。本当の世界なんてわからないし、その人の世界では月がなくなったに過ぎない。単一の世界なんてなく、人の数だけ世界がある。そして、人は大部分を共通にして生きているのだ。



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