書評: P.クロソウスキー『ロベルトは今夜』若林真訳(2006)(河出文庫)

本書は、ぼくが「なぜロシア文学の性はいつも倒錯しているのか」とつぶやいた際、ポアンカレ書店を営む坂口氏がすすめてくれたものだ。もう2年か3年も前のことだが、ついに読んでみた。




著者のクロソウスキー (1905-2001) はコレージュ・ド・ソシオロジーの会員で、画家でもあった。フーコー、ドゥルーズ、バタイユなどと交流し、遠藤周作ともパリで何度か会っていた。96歳で亡くなっており、動乱の20世紀をほとんど生きた人だ。パリに生まれパリに亡くなった人だが、友人のパリジャンはクロソウスキーなど知らないと言っていた。マイナーなのか。


解説(P.263)によれば、本書は『歓待の掟』 Les lois de l'hospitalite, 1965の全訳であり、それは時を隔てた3作品、

  • 『ロベルトは今夜』 Roberte ce soir, 1953
  • 『ナントの勅令破棄』 La Ré vocation de l'Édit de Nantes, 1959
  • 『プロンプター』 Le souffleur, 1969 
が一つにまとめられたものだ。そこで、記事タイトルには本書の書かれた年を書くのを控えておいた。『ロベルトは今夜』は、この本の中におさめられている一部だ。


本作は、キリスト教の背景がないと読みづらい。解説を読むまで、ちんぷんかんぷんで読み進めた。以下は、解説の一部をまとめたものだ。理性によって審判を下す合理的なカルヴァン教徒であるロベルトを妻にもった神学者のオクターヴは、妻に原罪を植え付けようと企てる。オクターヴは、妻に戒律の意識を自覚させようとする。それは、あえて罪を犯させることによって、神の恩寵や罪意識を抱かせるという企みだった。しかし、オクターヴの予想に反し、ロベルトは理性によって罪意識を克服し、むしろ肉体の快感を感じる。自己の内部にのみ審判者の目を持つロベルトは、審判者の目たる邪魔なオクターヴを毒殺し、甥を受け入れるが、亡きオクターヴの目線が気になってしまう。オクターヴは、最終的にはロベルトに戒律を意識させることに成功していたのだ。また、オクターヴは正義をなしたことに満足した。そして、甥も自らの欲求を満足させた。

また、解説には宗教とエロチスムについての興味深い指摘があった。宗教における霊の陶酔とエロチスムによる肉体の陶酔のアナロジー(P.265)だ。多くの絵で、艱難辛苦を経て忘我に至った修行僧は、ふくよかな肉体の女性のイメージを持った神によって迎え入れられる。カトリック教は、エロチスムによって自己超越をはかられては困るので、婚姻の秘跡を経ない肉の行為を罪とした。しかし、これは皮肉な結果を導いた。この戒律の存在が、かえって肉体への陶酔を強烈にした。やがて、思いがけない逆転が起こった。エロチスムの陶酔を味わえる者は、戒律を信じている者に他ならないと、サド侯爵が言い出した。
そして、現代は戒律が消滅した。しかし、性の解放は、手放しには喜べない。なぜなら、低俗で無気力な性風俗があふれ、エロチスムの陶酔や、自己超越の願望となるものがないからだ。


ひらたく言うと、ほとんどどのページがポルノだった。冒頭にルーヴルのオダリスク (P.24) の描写などがあり、美術を知っている人は画家でもあるクロソウスキーの書いた文をより楽しめる。パリから帰ったばかりだった僕は、本書がロシア人による著作だと思って読んでいた。なぜなら、名前に同じ語末を持つチャイコフスキーもムソルグスキーもロシア出身じゃないか。もしフランス人によるものだと知っていたら、パリへ行く前に読んでいただろう。しかし、本書の中に、足を運んだばかりのルーヴルについての記述があり、著者もフランス人だとわかると、嬉しくなった。


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