臨済宗の宝泉寺で三泊四日の修行した

寺の朝は早い。 夜明け前の5時すぎに起きる。生活は全て規則正しく、規律守って行われる。
 修行と聞いて、火の上を歩くとか、飢餓状態を過ごすとか想像したら、それは違う。修行というのは、日々の生活の一瞬一瞬、全ての瞬間のことを指している。人生に対する態度とか、生き方そのものだと思った方が正しい。


2017年12月12日から15日までの4日間、京都の寺で過ごした。修行に行こうと思ったのは、人にイライラすることが多く、また自分を幼く感じることがたびたびあり、誕生日を目前にしたころ、大人であるには未熟すぎると感じていたときに思いついたからだ。結果的に、寺修行は、私の価値観、生き方、人々に対する態度を大きく変えることになった。

寺での生活

まず、寺でのタイムスケジュールを以下に紹介した。

5:20 起床。
5:40 外を歩く。
5:45 外で八段錦。
6:00 座禅
7:00 読経
7:20 掃除
7:45 座禅
8:00 朝食
8:30 朝食終わり
9:00 作務
11:45 小座禅
12:00 昼食
13:00 昼食終わり、自由時間
17:00 夕食
17:30 夕食終わり
18:00 座禅および、法話もしくは読経
20:00 自由時間
22:00 消灯

寺での生活は一分も乱れることなく、毎日続く。朝は、鐘の音とともに、修行僧が修行者を起こしに来る。布団をたたみ、顔を洗う。寺では、食事の準備が整ったことの合図など、すべて鐘の音が合図になっていた。大昔のころから変わらないやり方をしているのだろう。八段錦は、太極拳に似ている。巷のラジオ体操のような感覚で行われているようだ

食事のマナーも非常に厳しい。 咀嚼音を立てることや、箸と食器が当たる音は許されない。鼻をすすることはもちろん、私語は厳禁である。注意されたときは、いつであっても、食事以外でも、「はい、ありがとうございます」と言わなければならない。什器の取り出し方や並べ方も決まっており、食事をとる前には合掌する。向かいの人が食事を皿から自身の什器に取り分ける際には、取り分けやすいように皿を 傾けてあげることも求められる。食べる前と、食べたあとには、食事の際の読経がある。姿勢が悪くならないように、什器は顎の高さまで持ち上げて食べる。什器は両手でとらなければならない。

食べ終わったあとは、タクアンとお湯を什器に入れて、タクアンを使って什器を拭いて掃除する。そして、タクアンを食べ、什器もそのお湯で洗い、布巾で什器を拭く。洗剤やスポンジを使うことはなかった。こういった一つ一つの作法に気を配るのは、慣れないうちは大変で、一日目は気持ちにほとんど余裕をもてず、食事が非常に辛い時間だった。30分間も正座しなければならないのも厳しいものだった。

午前中の作務では、外作務といって、畑仕事をしたり、落ち葉を掃除する。私の担当は、堆肥作りだった。内作務もあり、おもに建物内の掃除が行われる。聞くところによると、僧侶はもともと一切の生産活動は禁じられていたが、山奥に寺を作ったところ、食べるものが何もなく、そこで畑仕事を修行の一つとみなすことにしたらしい。

昼食は比較的自由に団欒しながら過ごすことが許された。昼食や、一日の修行を終えた20時ごろには、お菓子、キャラメルコーンや黒糖かりんとうなどが出された。寺の薄味の食事と違い、塩気がほどよくあっておいしかった。お寺では、食事を微塵も粗末にすることは許されないので、お菓子の粉も指で掬いとってキレイに食べつくす。

法話

運良く、週に一度の和尚さんの法話を聞く機会があった。その法話は自分の考え方や生き方に影響を与えるのに足りるものだった。法話を聞いてから数日間、座禅をしながら反芻するうち、人に対する感謝や協力の気持ち、手助けしたいという気持ちを抱くようになった。

仏教では、この世の中のすべては、類まれなる偶然の積み重ね、 因と縁のめぐりあわせでできている。で生ずる。自分ひとりの力で何かを成し遂げたなどと思うのは大きな勘違い。私が寺に行けたのも、誰かが新幹線を運転してくれたり、留守中の対応をしてくれたりしてくれているからであり、会社員の人も、誰かが代わりに仕事を代わってくれているなどして対応してくれているから寺に来れている。私がフランス語検定に受かったのも、私は確かに勉強したが、周囲の人間が、私が勉強できるように配慮してくれたり、おすすめの本についてレビューを書いてくれていたりしたからこそ、合格することができた。和尚の法話で印象に残っているのは以上の話だ。

周囲の大きな助けにたよって生活している自分を思うと、自分ひとりで今の自分が作り上げられたのではないと感じられてくる。アメリカ的self-made-manなんてものは、幻想であるのだ。西欧的価値観によれば、個人とはindivisualであり、それ以上分割(divide)できない単位だという。その考え方が、個人主義を生む一助になってはいないか。人の大きな助けを借りて生きている自分と、他者との間に、境目などあるのだろうか。他者と自分の境目など、幻想なのではないだろうか。そう思うに至った。すると、他者の喜びや悲しみが、まるで自分のことのように感じられた。他者を助けることは即ち自分を助けることであるのだと、ふと気がついた。自分とは即ち他人であり、他人とは即ち自分である。

ヒンズー教のもとになったウパニシャッド教では、自己(ブラフマン)と宇宙(アートマン)が同一であると知ることが悟りである。また、西田幾多郎は、デカルト的考察をさらにすすめ、禅とは、自己を自己だと認識する以前、主客未分の境地にいたることが悟りだと「善の研究」の中で著していた。これらは限られた例にすぎないが、共通点を持っている。悟りとは、自分自身とそれ以外との区別をなくすことなのかもしれない。


禅堂











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